子どもの頃から、人に何かを教えたり相談に乗ったりする機会が多くありました。

特にアルバイトを始めた大学生以降は、その機会が格段に増えた気がします。
社会人になると、より一層機会が増え、自社の担当だった派遣会社の営業の方やセミナーで出会ったばかりの方のキャリア相談に乗ったりもしていました。

その時の「役に立てた」「喜んでもらえた」という体験が、今の仕事に繋がっているのですが…..
なんとなく、最近心に引っかかっていることがあるのです。

1日中そのことを考えているとか、めちゃくちゃ落ち込んで自分を責めてしまうとか、そんなに大きなことではありません。でもふとした瞬間に「あぁ、嫌だなぁ」と感じるし、大きな落ち込みはなくとも地味にメンタルは削られます。

何より喉に小骨が引っかかったようなスッキリしない状態が嫌なので、何がそんなに嫌なのか言葉にしてみたいと思います。

えっ?また同じことを繰り返すの?

そもそも何が小骨のように引っかかっているかと言うと。

ちょっと前に知人の働き方の相談に乗ったのです。クライアントとのセッションではないので、愚痴を聞くが8割、私からはこう見えるよを伝えるのが2割ぐらいの割合だったでしょうか。

とはいえ、とても悩んでいたように見えたので、私としては相手が少しでもその状態から抜けられるように、できる限りの働きかけはしました。3時間ぐらい話したかな?
最後には相手も「そうだよね。そうしてみるね」と話して終了したのですが…..

それからしばらくして、また話をする機会があり、「どうすることにしたの?」と聞いてみたところ何も変わってない。どころか、あの時の話は全く無かったかのようになっているのです。

同じことを何度も繰り返して、それが嫌になったんだよね?
自分でも同じことを繰り返しているし、今動かなければ、このままずっとこの状態が続くのが怖い。そう思って私に相談したんだよね?

それなのにどうして全部無かったかのようになっているんだろう?
私の頭の中に「??」が山ほど浮かんだ瞬間でした。それと同時に私が使った時間や伝えた言葉は、結局のところ一時凌ぎでしかなく、何も生み出さなかったんだなと虚しくなったのです。

「あー、親身になってバカみたい」
誤解を恐れずに言えば、この言葉が一番しっくりくるかもしれません。

関係性の近さが引き起こす自分を蔑ろにされている感覚

これじゃダメだと思っても、何度も同じことを繰り返す。

あるあるですよね。私自身も身に覚えがありすぎるし、クライアントとのセッションや組織開発のプロジェクトでもよくあることです。

むしろ、パッと切り替えてサッと進める方がレアケースと言ってもいいかもしれません。
なので例えばクライアントが同じ状況を繰り返していても、一歩引いたところで見守っていられるし、ましてや「親身になってバカみたい」と思うこともありません。

なのに、今回はそう思ってしまった。
この違いはなんだろう?

それは相手との関係性、もっと言うと相手との気持ちの近さに起因しているような気がします。

クライアントと私は言うまでもなく、クライアントとコンサルタントという関係。
どんなにお付き合いが長くなろうとも、仕事仲間や友だちとは違います。「人として」という部分はあれど、やっぱりコンサルタントという役割の中で相手と関係を作っていきます。

だから同じことを何度繰り返しても「大丈夫。また一緒にやってみよう」と考えられるのだと思います。

でも今回のように、コンサルタントという役割ではない私個人との関係が近い場合。
相手をグッと自分に近づけて考えてしまっている気がします。

だからイライラするし、なんで同じことを繰り返すの?とも思ってしまう。
どうも自分が蔑ろにされた感覚を持ってしまうようです。それと同時に、できない自分を目の前に突きつけられているような感覚にも陥るのです。

自分の課題と他者の課題を分離させることの難しさ

アドラー心理学の中で、『課題の分離』という言葉があります。

これは自分の課題と他者の課題を分けることで、「あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと(あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること)によって引き起こされる」と言われています。

私の心の中に小骨のように引っかかっているのも、「親身になってバカみたい」と感じているのも、まさに「他者の課題に土足で踏み込んでいる」からなんですよね。

相手の問題は相手の問題。
その相手がどんな行動を選ぼうと、それこそ何度も同じことを繰り返そうと、その結果何ひとつ現実が変わらなかったとしても、それは私の課題ではないし私が考えることではないんですよね。

むしろ、相手の課題に踏み込んでいる私の方が迷惑。
とはいえ、自分と近い相手になればなるほど、頭で分かっていても難しいなぁと思います。

結局は相手の問題ではなく自分の問題

ここにはもう1つ。私のエニアグラムのタイプ2という特性も関わってきているように感じます。

エニアグラムのタイプ2は、通称「助ける人」と言われるぐらい、他者を助けることに生きがいを感じます。
それが良い方向に出ている時は問題ないのだけれど、そこに囚われてしまうと

「なんで私のいうとおりにしないの?」

「私の言ったとおりにやったら上手くいくのに」

と無意識のうちに相手をコントロールしたくなるのです。今回のパターンは、まさにこれですね。
アドラー心理学でいうところの『課題の分離』ができなかった上に、さらにタイプ2の特性が悪い方で出てしまった。

こうなってくると、すでに『相手が同じことを繰り返すこと』は課題ではなくなっている気がします。
私自身の捉え方の課題。

相手の課題と自分の課題を混同しているうちは、相手に対する憤りの気持ちばかりが湧いてきますが、「ちょっと待って?そもそも相手は関係なくない?」と気づくと、相手をどうこう言っている場合じゃないなと。

まず気づくことから始める。全てはそこから

相手をどうこう言っている場合じゃないなと気づいたところで、急に全てが変わるわけではありません。

でも今、このブログを書きながら「なんだ、別に相手がどうこうという話じゃないんだ」と気づいた私は、少しだけモヤモヤしたのが晴れた気がします。
例えるなら、分厚い雲に阻まれて見えなかった太陽が、うっすらと見えてきた感じ。

気づかなければ、ずーっと「親身になってバカみたい」と思い続けていたかもしれません。
気づいたことで、さて自分はこれからどうしようかと次を考える気持ちにもなったし、もしもまた同じことを相談された時には、一歩引いて相手を見られるような気もしています。

組織開発のプロジェクトでよく、「気づくことか始める。気づけば自然と人は変わる」と言っていますが、まさにそんな感覚です。

もしかしたら、私と同じように後輩や部下に親身になってアドバイスしたのに、蔑ろにされた感じがしてイライラしたり、「あんなに親身になってあげたのに…」と思っている方もいるかもしれません。
そんな時は、相手の課題と自分の課題をごっちゃにしていないか?と振り返ってみると、「あれ?もしかして」と気づくことがあるはずです。

さらに気づきを深めたいときは、エニアグラムのようなタイプ論を学んでみるのも良いかもしれません。